ポストカード(歴史を見つめた土地へ)
 世界各地には、「歴史の舞台」ともいえる、有名な場所や都市が数多く存在します。ここでは、有名度はさておいて、歴史の流れを見つめた場所をいくつか、紹介します。
 一見、「時刻表」とは無縁のようにも思えますが、それぞれの土地には人々の生活があり、当然のことながら交通手段もありました。それらの交通については「時刻表歴史館」で紹介していますが、その展示物の背景をより理解する上で、本コーナーは参考になるのではないでしょうか?
 テニアン島は、サイパンの南に位置する小さな島です。元はドイツ領でしたが、第一次大戦でのドイツの敗戦後は、委任統治領として、日本の管轄にありました。これは、当時テニアン島で発行された絵葉書セットです。(正確な年代は不明)

 右は中に入っている絵葉書から、「テニアン町本通り」(上)と「テニアン桟橋」(下)です。島には日本郵船の南洋航路の大型船が横浜から定期的に通っており、「タバコ」という看板が見えるように、日本本土から離れた島にもかかわらず、内地と変わらない生活もありました。(このセットの別の一葉には「テニアン神社」もあります。)

 しかし、太平洋戦争開戦とともにこの地域の島々は戦場と化し、アメリカの手に陥ちました。テニアンには、爆撃機の大規模な基地が置かれ、日本本土空襲の拠点となります。そして1945年(昭20)8月6日−この島を飛び立った一機のB-29爆撃機は、ヒロシマに針路を取りました。人類は核の時代に入ったのです。
 戦後アメリカの信託統治領となり、南海のリゾート地として穏やかな日々を取り戻したこれらの島には、こうした歴史がありました。
 戦前、樺太(現在のサハリン)の北緯50度以南は日本領でした。これは、樺太定期航路が通う最北端の集落であった安別(あんべつ)で発行された絵葉書です。(大正後半から昭和戦前にかけての発行?)

 右上の一枚には「樺太西海岸安別部落の中央より、北緯50度日露境界の通ずる国境山並びに、露領ピレオ岬を望む」(原文を現代文に修正)との説明がついています。下の一枚は、その「国境の通ずる」山から安別を見下ろした構図です。上の葉書の正面の山がまさに日ソ国境で、左の方の海上に突き出た島のようなものがピレオ岬です。当時、国境には左のカバーの写真にもあるような、将棋の駒のような形をした標石が設置されていました。

 終戦間近の1945年(昭20)8月、樺太北部のソ連軍は、突如国境を越えて当時の日本領に侵攻しました。ここ安別でも、早い時期に陸・海からソ連軍の攻撃が行われ、日本側は退却。漁業と炭鉱を中心とした、小さな海岸沿いの集落は、日本地図から消えました。

「西比利亜国境 満洲里停車場」

 満洲里は、中ソ(現・ロシア)国境の都市です。戦前・戦後を通じ、アジアとヨーロッパを結ぶ鉄道の中継点として、重要な位置を占めています。ここは元々、ロシアが鉄道敷設に伴って建設しました。しかし、中国人や現地の蒙古人も集まり始め、国際的な様相を帯びてきました。左の下の画像は駅の壁面のアップですが、縦に「満州里」と漢字で書かれた看板と、多数のロシア語の看板が混在しています。

 この葉書には1919年(大8)1月17日の「第七野戦局」の消印が押され、山口県のある小学校が宛先になっています。当時、ロシア革命で混乱するソ連へ、治安維持名目で日本をはじめ各国の軍隊が出動しました。この葉書は、シベリア派遣の陸軍大尉が、小学生からの慰問品に対するお礼に出したもののようです。

 東アジア最深部のこの街まで勢力を伸ばすことを狙い続けた日本は、1931年(昭6)の満洲事変でそれを達成しました。右は昭和10年前後と推定される絵葉書セットです。なだらかな山並みのふもとに、ロシア風の寺院の塔が見える街並みと草原の遊牧といった、のどかな風景が描かれていますが、中の葉書には「日本特務機関」や「満洲国警察隊本部」といったものもあり、前線の緊張が窺えます。
 満洲の国境の街をもう一箇所紹介しましょう。ソ連との国境を流れる黒龍江(アムール川)に面し、満洲の中でも最北部に位置する「黒河」(こくか)です。当時は黒河省(現在の黒龍江省の一部)の中心都市でした。
 これは黒河駅の絵葉書です。黒河駅は、この地域の開発を目的として1935年(昭10)に開通した、満洲国鉄「北黒線」の終点です。「黒河」という表示の右側にしか、隣の駅名が書かれていない駅名標が、行き止まりの終着駅の感をひときわ高めています。

 この駅の先3キロのところを流れている黒龍江の対岸は、ソ連の"ヴラゴウエシチェンスク"という街でした。資料によると、この辺りで川幅は六〜八百メートルとのことで、建物はもちろん、街を行き交う人々や訓練をするソ連兵士の様子がはっきりと見えたといいます。
 国境の河・黒龍江には満鉄経営の長距離客船が上下し、満洲側の川岸の都市を結んでいましたが、実際には片時も警備を緩められない国境の緊張地帯だったようです。満洲航空(旅客輸送だけではなく、軍用輸送手段としての役割もあった)も当然のことながら、国防上重要なこの街へ路線を伸ばしていました。
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