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大陸支配の尖兵「満鉄」と「あじあ」号 一地域の鉄道企業を超えた鉄道 日露戦争に勝利した日本は、一層優位な立場で中国東北部の支配を確立していきました。その過程で形成されたのが、南満洲鉄道(South Manchuria Railway)−略して「満鉄」です。1907年(明40)4月に営業を開始した満鉄は鉄道経営以外に、沿線都市の経営や資源開発・調査研究活動にも事業を広げた、総合的な国策会社でした。 一方で、満鉄は地域的な存在にとどまらず、アジアと欧州を結ぶシベリア横断鉄道の入口と言う国際的な役割も担っていました。下は、英文で書かれた満鉄の時刻と運賃等の案内ですが、表紙には極東の交通図を掲げ、満鉄路線(赤線で表示)の国際的重要性をアピールしているようです。 |
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1915(大4)年5月 157mm×76mm 四つ折 |
「最も短く・速く・安い欧亜連絡」というタイトルがついた急行列車の案内。 当時満鉄は海運も直営しており、上海・大連航路を運航していました。 |
時代を風靡した流線型特急 1932年(昭7)に現在の中国東北部に「満洲国」が建国されると、鉄道は開発に不可欠な存在として、さらに重要度を増し、新路線も次々と建設されました。満鉄は、日満連絡船で大連に着いた旅行者を各地へ送り込み、逆に満洲の産物が満鉄によって大連に集まり、海外へ送り出されていきました。 一方、日本の満洲にかける意気込みが、列車として結実したのが、特急「あじあ」号です。最下段は、当時発行された英文パンフレット。当時のアメリカの特急列車にならい、先頭の機関車から編成は全て流線型につくられ、当時としては珍しく冷暖房を完備。最後尾には密閉型の展望車を備えた斬新なデザインは、世界に対して満洲の先進的イメージを訴える格好の象徴となりました。 「あじあ」号は、1934年(昭9)に大連・新京(現・長春)間で運行が開始され、その後ハルビンまで延長されました。戦争の激化に伴い、1943年(昭18)に廃止されるまで、満鉄の看板列車として君臨しました。 |
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1933(昭8)年4月 188mm×97mm 七つ折 同じく英文で書かれた案内書。 連絡する中国国鉄や北満鉄路も掲載。 |
大連・新京(現・長春)間の「連京線」の上り列車時刻表より。 「あじあ」号登場前の看板列車・急行「はと」の時刻が見られます。 |
1935(昭10)年 190mm×128mm 24頁 |
「あじあ」号紹介冊子の最終ページには、時刻と運賃が掲載されています。 駅名は大連、大石橋、奉天(現・瀋陽)、四平街(現・四平)、新京(現・長春)。 |
関連項目 通学列車と軍用定期航空が伝える満洲の実像(日本旅行協会 大連支部、1934年) 海の満鉄(大連汽船、1935年) 日満支連絡急行が駆け抜けた時代(朝鮮旅行案内社、1940年) ソ連・満洲国境をゆく船旅(南満洲鉄道 北満江運局、1940年) |
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