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Far Eastern Airlines 1956/03 御旅行は極東航空
1956(昭31)年3月
極東航空
122mm×70mm 四つ折


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関西民間航空界の復活

関西航空人・財界人の思いが結集
 戦前の関西は、初の民間定期航空路を開設した「日本航空輸送研究所」や、航空機メーカの川西があり、航空界では由緒ある土地柄でした。それだけに、占領軍による戦後の航空禁止令の解除とともに、独自に新たな航空会社が設立されるのは、自然な成り行きだったと言えます。
 こうして、井上長一ら戦前の関西の航空人が集まり、財界のバックアップもあって、1952年(昭27)に誕生したのが「極東航空」でした。

ローカル線会社の苦しみ
 同時期に東京に誕生した「日本ヘリコプター輸送」が、東日本の路線を担当したのに対し、極東航空は西日本の路線を担当しました。この時刻表の表紙に書かれている通り、四国や九州がその目的地でしたが、幹線を持たず、しかも当時は今ほどの需要は無かったことから、経営は非常に大変でした。
 社名は、日本のみならず極東アジアへの進出を想定した壮大なものでしたが、結局、経営環境の苦しさには勝てず、1958年(昭33)に「日本ヘリコプター輸送」と合併して「全日本空輸」となり、その生涯を閉じました。しかし、国内随一の規模を誇る全日空の基礎として、その存在意義は重要です。
 当時はDC-3(C-47)など、大戦中に製造された輸送機の払い下げを使用するのが一般的でしたが、極東航空は新造機の導入に踏み切りました。右の写真は同社が運航した、イギリス製の「ハンドレ・ページ マラソン」です。同社のマラソン機には「平安」と「浪速」という愛称が付けられ、眺望が良いことや、機内の豪華さが好評を博しました。
 しかし一方で、構造的不具合から、飛行停止になるなど、不運な機体でもありました。このアクシデントが、極東航空の苦しい経営に輪をかける結果ともなりました。
関連項目

日本最初の定期航空は関西から(日本航空輸送研究所、1934年−1938年)
民間航空再開と全日空のルーツの設立(日本ヘリコプター輸送、1954年)
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