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1941(昭16)年5月 134mm×68mm 四つ折 右は、日本海航路の主力、「月山丸」 就航時に発行された案内書の表紙。 1938年(昭13)8月発行 |
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国策によって再編された日満連絡最短ルート 日本海をピストン運航化 敦賀や新潟と朝鮮半島北部・ソ連沿海州を結ぶ北日本汽船の日本海航路は、満洲への最短経路として、また、シベリア横断鉄道に連絡する欧亜連絡ルートとして、昭和の初期に重要な位置を占めていました。(当館の「大陸・南洋へ」展示室で紹介) 本航路は、軍事的・経済的理由から常に注目されてきただけに、戦時体制に入ると真っ先に国家の介入の対象となりました。日本海汽船は、前述の北日本汽船など、当時その周辺に航路を持っていた船会社が連合し、日本海航路の強化を図るため、1939年(昭14)に設立された国策会社です。 これは、北日本汽船の時代から発行されていた、満洲から内地への鉄道と航路の乗継時刻表を同社が踏襲したものです。表紙には、この年に就航する最新鋭「白山丸」の勇姿が描かれています。 |
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設立に参画した各社は、自社船舶を現物出資し、全体として統制のとれた運航計画や増便が可能となりました。 例えば、それまで4日おきの就航であった新潟への航路を例にとると、隔日1便の割で就航するようになっています。 元・北日本汽船の月山丸・満洲丸等のほか、大連汽船の貨客船であった河北丸といった船が加わったためです。 |
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関連項目 大陸の玄関・大連へ−日満連絡船(大阪商船、1934年−1941年) 満洲の心臓部へ日本海の荒波を越えて(北日本汽船、嶋谷汽船、日本海汽船、1933年−1939年) 緊迫する時局と海運(東亜海運、1940年) |
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