「時刻表歴史館」ホーム > 大陸・南洋へ > 北日本汽船(1933−39)、嶋谷汽船(1933−34)、日本海汽船(1936)
満洲の心臓部へ日本海の荒波を越えて

もう一つの日満連絡ルート
 日本と満洲を結ぶルートとして伝統的なものは、神戸と大連を結ぶ大阪商船の日満連絡航路でしたが、1931年(昭6)の満洲事変後、朝鮮半島北部の鉄道や港湾の整備が急速に進んだことで新たなルートが脚光を浴びることとなりました。それが日本海横断航路です。
 1933年(昭8)に鮮・満国境の鉄道の連結により、朝鮮半島北部と満洲国首都・新京(現・長春)に直通列車の運行が開始されます。その後、1935年(昭10)には、南満洲鉄道の手による羅津港の整備が完了し、日本本土から日本海を渡って朝鮮半島北部へ、そしてその先の満洲の心臓部への速達ルートが完成しました。
 以下にご紹介するのは、敦賀や新潟と、朝鮮半島北部の清津・羅津(一部はソ連のウラジオストックまで)を結ぶ航路の案内です。 当時この航路は、大連経由のルートと比べ、満洲国の首都への近道として宣伝されていました。

 また、この航路は、シベリア横断鉄道に接続して、アジアと欧州を結ぶ欧亜連絡ルートの一部としての役割も重要視されていました。敦賀からの出港日には、東京からの直通寝台車が敦賀港の桟橋まで直通で走って船に横付けされ、欧州への旅行者を運んでいました。
Kita Nihon Kisen 1933/05

新日満連絡航路案内
1933(昭8)年5月
北日本汽船
230mm×104mm 12折
Shimatani Kisen 1934/?

大満洲国行 定期発着表
1933(昭8)年
嶋谷汽船
151mm×76mm 四つ折
Shimatani Kisen 1934/04

満洲へ
1934(昭9)年4月
嶋谷汽船
183mm×93mm 八つ折
 北日本汽船は、以前から敦賀と朝鮮半島北部を結ぶ日本海横断航路を経営してきましたが、このルートが脚光を浴びると「新日満連絡航路」として大々的に宣伝を開始しました。内部には日本海を中心とした航路地図が掲載され、「日本海を我等の湖水に致しませう」といった大胆な宣伝文句も書かれています。
 嶋谷汽船は、北海道から本州日本海岸を経て仁川へ至る航路や、新潟から朝鮮半島北部を結ぶ航路を運航しました。上中央は満洲・大連で「満洲大博覧会」が開催された1933年(昭8)年の予定表。従来は元山などに寄港しながら朝鮮半島北部へ向かっていましたが、「5月3日より開始」として、新潟から雄基・清津への直航線の開設がアピールされています。(鮮海丸によって月3往復)

 下左は、北日本汽船が新潟−北鮮線を開設するにあたり、1935年(昭10)4月に分離設立した日本海汽船の航路案内。(嘉義丸によって月3往復) 満鉄の手による羅津港の開発工事が完了し、朝鮮半島北部の窓口が雄基から羅津に変わりました。
 この日本海汽船は1939年(昭14)に母体である北日本汽船に吸収合併されますが、同年には北日本汽船・朝鮮郵船・大連汽船の三社出資による、日本海航路の一元管理を目的とした新会社の名前として復活しています。
 下右は、日本海汽船が北日本汽船に合併された当時の航路案内。新造船「月山丸」「気比丸」の登場で、大幅に便数が増大し、航路が充実した頃。
Nihonkai Kisen 1936/10

日満の近道
1936(昭11)年10月
日本海汽船
194mm×103mm 五つ折
Kita Nihon Kisen 1934/09

敦賀−北鮮航路案内
新潟−北鮮航路案内
1939(昭14)年9月
北日本汽船
186mm×88mm 八つ折


1939年(昭14)の北日本汽船の航路案内より。
 「月丸」は「月山丸」、「さ丸」は「さいべりや丸」、「滿丸」は「満洲丸」の略。「浦潮」は、ソ連のウラジオストックを表します。
ちなみに「満洲丸」の前身は、鉄道省の関釜連絡船「高麗丸」でした。
 なおこの翌年から、北日本汽船の日本海横断航路は、国策会社の日本海汽船の所属として運航されることとなります。
関連項目

大陸の玄関・大連へ−日満連絡船(大阪商船、1934年−1941年)
国策によって再編された日満連絡最短ルート(日本海汽船、1941年)
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