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日本の台湾統治を支えた縦断鉄路 植民地経営のはじまりは台湾から 台湾は、日清戦争後の1895年(明28)に締結された下関条約により、清国の統治が終わり、日本による植民地時代が始まりました。領有当初は原住民の抵抗が頻発するなど、統治を進める上で様々な困難がありましたが、台湾総督府は近代化開発に乗り出し、鉄道も延長や新線の開業が進みました。 下に紹介した時刻表の頃には、基隆−台北−高雄間の「縦貫線」や、台東−花蓮間の「東海岸線」を中心とする主要路線が一通り出来上がり、これは、戦後の1970年代になって山岳部を貫く新路線が開業するまで、ほとんど変わらない基本的な骨格となります。 今日、ローカルムードを味わえる路線として人気のある「集集線」が、産業の開発に欠かせない電源ダム工事の資材輸送のために開業し、国営化されたのもこの頃でした。 この時刻表は、2枚の大きな時刻表が内部に折畳んで収納されています。一枚は縦貫線、もう一枚はそれ以外の路線について書かれていました。 |
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1929(昭4)年7月 173mm×80mm(カバーの寸法) |
現在は廃線となり、新交通システム化された「淡水線」の時刻。 北投は、台北から近い温泉街として、よく知られていました。 駅名に、「大正街」や「宮ノ下」など、日本風のものが見えます。 |
森林資源の開発がルーツの「阿里山森林鉄路」 戦前の台湾の開発の中で有名なものとして、大正時代に開業した、中部山岳地域の材木運搬のための登山鉄道が挙げられます。下は同地域への観光パンフレットです。 勾配を緩和するために、山を巻くようにして登る「スパイラル線」はこの路線の特徴的な風物です。表紙のイラストにも、手前の山肌に3重の線路と、煙を吐きながら登る列車が描かれています。機関車も急勾配に適した特殊な構造のものが使用されていました。 彼方にそびえるのは、「新高(にいたか)山」。戦前の日本最高峰でした。 |
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1939(昭14)年頃? 190mm×89mm 六つ折 |
運材列車には一般人も便乗可能でした。 |
関連項目 南国の珍交通機関「台車」(台湾製糖埔里社軌道、1926年) 新時代の台湾(中国旅行社、1956年) 臨戦態勢の中で高度成長を続けた台湾鉄路(台湾鉄路管理局、1961年-1980年) |
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