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臺車時刻表 1926(大15)年5月 臺湾製糖 埔里社軌道 135mm×80mm 三つ折 表紙には乗車上の注意が書かれています。 ●下り坂では台車が浮かないように前に乗ること。 ●曲線にかかった時は体を内側へ傾けること。 乗客にテクニックを要求する乗り物も珍しい? |
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南国の珍交通機関「台車」 人が車両を押していた 鉄道は機械動力で動くとは限りません。その昔、人が車両を押すということが行われていた時代がありました。「人車」−そう呼ばれる鉄道は日本にもありましたが、アジア地域でこれがもっとも盛んであったのが台湾でした。 台湾では19世紀末から、鉱石積み出しのために人力トロッコが発生しましたが、やがて鉱山のみならず、砂糖工場や林業にもトロッコは広がりました。当時はまだ自動車が一般的ではなかったため、これらのトロッコ(台車)は貨物輸送のみならず、幹線鉄道沿線とそこから離れた地域を結ぶ旅客輸送交通機関として、台湾全域で重宝されることとなります。 台車は1台に最大4人乗りで、車両の四隅に立った棒をつかんで1人か2人の人足が押していました。屋根の無いものがほとんどだったようで、よく当時の旅行案内では、好天の中を疾走すると心地良いものであると紹介されています。 中部山岳地帯への足 ここに紹介するのは、台湾電力線(今日の台湾鉄路局集集線。西部幹線の二水から分岐)終点の外車※から、台湾随一の景勝地として名高い、日月潭付近を縫って中部台湾の山間部の町・埔里へ向かう台車の「時刻表」です。そうです−原始的に見られる人車鉄道にも、ちゃんと時刻表が存在しました。 (たしかに、こうした長大な路線では、いつでも必要な場所に台車を差し向けるなどという柔軟な対応もできないですし、単線の途中で行き違いも必要で、時刻が決まっていないと人を運ぶ交通機関としては具合が悪いですね) ところで、この台車の終点である埔里から、さらに台車を乗り継いで奥に分け入ると、霧社という町があります。ここは、1930年(昭5)10月に原住民による反日蜂起事件が発生した現場として、近代史の中に名をとどめています。 (※)土へんに呈 台湾の台車は戦後もしばらくの間、実用交通機関として使われていましたが、道路の発達や第二次産業の斜陽化によって今日では姿を消してしまいました。 |
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この軌道には、ご丁寧に旅客列車と貨物列車が存在していたようです。 時刻表の「上り」「下り」と、実際の山登り・下りは逆ですが、山登りは4時間半、下りは4時間弱所要だったことがわかります。 距離は20.6マイル(約30キロ)なので、平均時速7〜8キロということになります。 料金表に目を転じると、籐椅子使用のオプション料金などというものもあります。 たしかに、4時間普通の木箱の座席に座っているのも楽ではないでしょう… 当時の絵葉書にみる台車三態。 左:場所不詳。上で紹介した埔里社軌道? 台車はこのような急峻な山間部まで路線を広げていました。 右上:北回帰線に近い嘉義近郊。日除け代わりの傘に、照りつける南国の日差しが感じられる一枚。 右下:角板山へ向かう台車。木々の緑の中、池のほとりを爽やかに走る。 |
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関連項目 日本の台湾統治を支えた縦断鉄路(台湾総督府交通局鉄道部、1929年-1939年) 新時代の台湾(中国旅行社、1956年) 臨戦態勢の中で高度成長を続けた台湾鉄路(台湾鉄路管理局、1961年-1980年) |
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