「時刻表歴史館」ホーム > 旅は国境を越えて > 東支鉄道・北満ホテル(1927) | |
東支鐡道時間賃金表 1927(昭2)年7月 北満ホテル 72mm×90mm 四つ折 |
|
激動の歴史を見つめた極東の十字路・ハルビン 勢力争いの渦中の鉄路 19世紀以降、ロシアは中国東北部での権益拡大を目指していました。ウラジオストックからこの地域を横断してシベリアへ抜ける鉄道路線の敷設もその一環で、その結果誕生したのが、東清鉄道と呼ばれる路線でした。 東清鉄道はその後、中国の政治体制の変化に伴って名前を変えながら存続し、その昭和初期の姿が、ここに紹介する東支鉄道です。 日・露・中の思惑の渦巻く国際都市 沿線のハルビンは、各国の文化や商業・政治の中心地として、独特の雰囲気を持っていました。ロシア風の街並みから、「東洋のモスコー」(モスクワ)とも呼ばれました。 満洲事変以降、日本がこの地域を支配するようになると、東支鉄道は北満鉄路と呼ばれるようになりました。そして、は1935年(昭10)に満洲国に接収され、鉄道を通じてこの地域への日本の影響力が、さらに増大しました。 |
|
浦塩(ウラジオストック)からハルビンを経て満洲里(ソ連との国境の街)へ至る路線の時刻表。 右から左へ読み、左欄外に『欧露列車連絡日』との注記があります。 ウラジオストックから満洲里へ直通する、シベリア鉄道への連絡列車は、一週間に2回走っていたことが分かります。 |
|
関連項目 西洋と東洋を結んだ欧州の旅行産業(ワゴン・リ、1927年) 帝政ロシアの遺産を受け継いだソ連(インツーリスト、1935年) |
|
(目次に戻る) (サイトのトップへ) | |
(C) Copyright tt-museum 2001-2004. All rights reserved. |