ポストカード(戦後太平洋の女王たち)
 第2次大戦という未曾有の戦火は、太平洋を叫喚の海に変えました。特に、戦前の"海運王国"日本を担った船の多くは、乗組員の尊い命と共に、深い海の底に失われることとなります。
 しかし、やがて戦火が収まると、再び太平洋は両岸の国をつなぐ道となりました。そこは、航空機の発達に脅かされながらも、定期客船の最後の活躍の舞台となりました。
 このコーナーでは、船旅がまだ辛うじて実用交通機関としての役割を果たしていた、1950年代から60年代にかけて、太平洋地域で活躍した船を集めてみました。戦前の豪華客船もいいですが、実用本位で飾り気の少ないこれらの船影からは、庶民の哀歓が感じられるような気がします。

Issued by American President Lines / Jan. 1972?
President Wilson (American President Lines 所属 1万5千トン)

 戦後の太平洋にいち早く就航したのは、アメリカの船会社「アメリカン・プレジデント・ラインズ」でした。その名の通り、歴代大統領の名前を冠した船で米西海岸と横浜や神戸を結び、「憧れのハワイ航路」に代表される、戦後日本人のアメリカへの憧憬の象徴でした。上は、背景に見えるベイブリッジから、サンフランシスコでの撮影と推定されます。

 同社の船の中でも最も有名で、日本人の記憶にも深く残っているのが、ここに挙げた「プレジデント・ウイルソン」とその姉妹船である「プレジデント・クリーブランド」でしょう。昭和30年代、同船の運航スケジュールが、日本交通公社の「時刻表」にも掲載されていたくらい、日本にとっては身近でした。

 これらの船は、初めから民間向けに造られたものではありませんでした。戦時中に、軍用輸送用として大量に計画建造された「戦時標準船」の中から、未完成のものを、戦後一般向けに転用して完成したものです。それでは軍用向けに完成した仲間の姿を、下にお目にかけましょう。

Photo:Robert Troutt
Distributed by United Photo Studio, San Francisco, CF. / ca.1957
General Edwin D Patrick (アメリカ海軍所属 2万トン)

 第2次戦時中に大量建造され、軍事輸送に使用された「戦時標準船」の貨客船タイプの一隻です。
 戦後は米海軍の輸送部隊である"Military Sea Transportation Service"(略称:MSTS)に所属し、米西海岸と極東の諸港を結んで活躍しました。同部隊の便は、一般人が乗れた訳ではありませんが、日本では横浜や佐世保、他に当時米国領の沖縄や、韓国の仁川などを定期的に結んでおり、太平洋定期航路の中での異色の存在とも言えます。
 船体は軍事用らしく灰色1色ですが、前部と後部に設けられた大きなクレーンや、2本煙突といった特徴から、上で紹介した「プレジデント・ウイルソン」は親戚であることがよくお分かりになるでしょう。

 なお、この絵葉書は"MSTS"公式発行のものかは定かではありませんが、1957年(昭32)7月の消印が押されており、その頃のものと推定されます。

Issued by Orient Overseas Line / ca.1970
Oriental Jade (Orient Overseas Line 所属 9千6百トン)

 「オリエント・オーヴァーシーズ・ライン」は、「アメリカン・プレジデント・ラインズ」が幅を利かせていた太平洋航路に、1960年代半ばに後発として参入した、香港のいわば"ベンチャー企業"です。煙突には梅のマークが描かれ、東洋の船会社であることを象徴しています。

 この絵葉書の「オリエンタル・ジェイド」と姉妹船「オリエンタル・パール」はやはり、アメリカで戦時中に建造されていた「戦時標準船」を客船に改造したものでした。同社はこうした中古船を続々と買い揃え、(最初に紹介した「プレジデント・ウイルソン」も引退後は同社が購入しています。)大規模な客船ビジネスを展開しようとしました。
 しかし、時代は既に船会社にとっては厳しいものとなっており、このビジネスは短期間に終わってしまうこととなります。今では知る人ぞ知る、太平洋定期航路史の一断面です。

Issued by O.S.K.Line / ca.1960
あるぜんちな丸 (大阪商船所属 1万トン)

 大阪商船の南米航路と言えば、移民輸送の代名詞として語られることが少なくありませんが、その航路に戦後就航した一隻です。戦前日本の商船の最高峰に数えられる一隻である、先代「あるぜんちな丸」の名前を踏襲し、1958年(昭33)に建造されました。
 戦後の移民は1952年(昭27)に復活しましたが、戦前と船の航路は異なり、往復とも太平洋経由となりました。その関係で横浜の桟橋では、人生をかけた遥か遠い異国への旅立ちという胸詰まる出港風景が繰り返されたといいます。(戦前は往きはインド洋経由が主体で、神戸がその出発地でした。)

 しかし、世の中が豊かになるにつれて移民の数も減少し、船旅はレジャー性も重視するようになっていきます。「あるぜんちな丸」も設備を個室重視に改造するとともに、1965年(昭40)からはホノルルへの寄港も実現したものの、その7年後には遂に終航。実用交通機関としての日本の遠洋定期航路は幕を下ろしたと言えます。
 姉妹船の「ぶらじる丸」が、長らく三重県の鳥羽に保存されていましたが、残念ながら近年解体。船会社が発行した、こうした絵葉書などだけが当時を偲ぶ形見となっています。

Issued by Hikawa Maru Kanko? / ca.1961
氷川丸 (日本郵船所属 1万1千トン)

 戦前の日本客船ほとんど唯一の生き残りとして、その名を知られる一隻。この絵葉書は、1960年(昭35)夏の引退後に横浜港に保存されるようになって間もなく、運営会社が発行したものです。
 1930年(昭5)建造で、横浜〜シアトル間に就航。途中、戦時中に病院船となったり、戦後に国内区間に転用されたりした期間もありましたが、その現役生活の半分は一貫して北太平洋の荒波の中を往復していました。特に、戦後の1953年(昭28)にカムバックしてからは日米間の留学生の往来にも活躍し、高度成長を支えた人材の育成にも貢献しました。

 保存当時は上の絵葉書の通り、船体色を明るい緑色に塗り替え、宿泊もできたようです。やがて観光設備の改廃はありましたが、船体は元の黒色に戻され、現役時代を思わせる姿で今日も古巣・横浜港に佇んでいます。
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