羽田空港半世紀の歴史
復興篇



旧待合所付近
 戦時中、東京飛行場には一部の部隊が置かれましたが、軍事的にはそれほど中心とならずに終戦を迎えました。しかし、米軍が進駐するやいなや、東京飛行場は日本のみならず極東の玄関として、軍・民問わず重要な役割を担うこととなりました。

 左は、1947年(昭22)頃撮影と思われる、旧ターミナルビルの旅客待合所付近です。東京飛行場は"HANEDA ARMY AIRBASE"(羽田陸軍航空基地)として、米軍の管理下に置かれていました。

 左と下の3枚の写真は、近年私が入手したものです。撮影者名は不明ですが、日本からフィリピンへ転勤する、米国人女性軍人のスナップのようです。
 当時は米軍基地として、日本人には全く縁遠い存在であっただけに、貴重な記録を残した撮影者に、謝意を表したいと思います。
年譜その3

1941年(昭16)
太平洋戦争開戦。

1945年(昭20)
終戦後、米軍により接収される。
地元住民は強制退去に。

1946年(昭21)
第一期空港拡張工事完了。
滑走路2本の態勢となる。

1947年(昭22)
パンアメリカン航空機乗り入れ。
他会社も続々と乗り入れ開始。

待合所前の駐機場にて
 米軍による飛行場の接収は、急で高圧的でした。この地域には一般人も住んでいましたが、48時間以内に立ち退きを命じられたといいます。整地と埋立ての後、長大な滑走路を有する大飛行場が出来上がりましたが、この土地の守り神である穴守稲荷をはじめ、古くからの面影は完全に消滅しました。 −ただひとつの例外を除いては・・・。

 この頃撮影された上の写真は、左右2枚続きです。左は撮影者がこれから搭乗する、米軍のC-54輸送機。右は滑走路を川崎方面へ離陸する、C-46輸送機をとらえています。当時、日本は航空機の運航を一切禁じられていたため、発着するのは米軍機をはじめとする外国機だけでした。

 撮影地点は旧ターミナルビル前で、右の写真には旧・日本航空輸送の格納庫が見られます。「発祥篇」最後で紹介した絵葉書の、左方に写っているのがそれです。
 左は、昭和20年代末頃の管制塔の内部。施設が徐々に返還された一方で、日本側の要員が整っていなかったため、管制業務は米軍に委託されていました。その関係で、日米混成で業務にあたっていた様子がわかります。管制官が握っているのは、当時のマイク。
 眼前の駐機場には、当時最大級の米軍輸送機「グローブマスター」と、C-97輸送機が見えます。

 この写真は撮影者不詳。ある航空関係団体の放出品の中に含まれていた一葉を入手したものです。
 
 1952年(昭27)7月、米軍・羽田航空基地の一部が日本に返還されました。「東京国際空港」の始まりです。しかし、当初はまだ旅客ターミナルなどの施設は整っておらず、整備や米軍関係施設のある一角に、小規模な旅客取扱施設がありました。
 多くがまだ米軍基地であったため、民間専用ターミナルが出来るまでは、空港への入場には上の画像にあるような「入場票」が発行されていたようです。これは返還一年後のもの。「軍用建物には入らないこと」といった注意書きからも、当時の状況が窺えます。

 下に紹介するのは、当時東京国際空港に駐留していた、米空軍第1503輸送航空団が発行した、着任者向け案内パンフレットです。当時の基地の状況を伝える貴重な資料です。

 一部返還後の1952年(昭27)から、完全返還された1958年(昭33)までの間の発行と思われます。1503輸送航空団は、MATSに所属する部隊として有名でした。

縦21.2センチ×横15.3センチ
 右はその扉から、米軍基地の配置図。今日の旧整備場地区に当たります。
 左端は海老取川(EBITORI CANAL)、その下方にかかる橋は稲荷橋です。橋のたもとには「MP GATE HOUSE」があり、憲兵が空港への出入をチェックしていました。かつて人々の生活があった羽田の土地は、普通の人々が容易に近づけない、フェンスの向こうの世界になっていました。

 そこから兵舎の並ぶ基地内の道を行くと、地図の右上の角にある建物が当時のターミナルビルです。
 この案内書には、基地内の施設(売店・食堂・教会など)の営業時間や都心とのバス連絡についての説明の他、司令官からのメッセージとして、以下の文章が書かれています。

「我々の地位は幾分変わったものです。多くの商業航空会社と基地を共同使用し、日本政府と基地を共同管理しています。(中略)着任に際して第一に認識しなければならないことは、ここでは我々アメリカ人は日本政府のゲストであるということです。我々一人一人がアメリカ合衆国の大使です。ここでの第一の仕事はMATSの業務ですが、第二の仕事は我々のホストである日本の人々との友好と信頼の基礎を築くことです。(後略)」
 
年譜その4

1951年(昭26)
日本航空国内線就航。

1952年(昭27)
一部が米軍から返還される。
東京国際空港のはじまり。

1955年(昭30)
新ターミナルビルが竣工

1958年(昭33)
管制が米軍から日本側に移る。
日本に全面返還された。
 やがて従来のターミナルの滑走路を挟んで反対側には、1955年(昭30)に新しいターミナルがオープンしました。上は、その頃発行された絵葉書です。(絵葉書の左上が旧ターミナル地域です。)

 新ターミナルビルは、管制塔の立つ4階建ての本館と、チケットカウンター棟から構成されていました。本館からは、駐機場に沿う形で搭乗者通路の屋根兼見学者通路(いわゆる送迎デッキ)が延び、一部は駐機場中央に突き出す形になっているのがわかります。

発行:日本空港ビルデング(株)
 新しくオープンしたターミナルビルは、東洋一の規模ともいわれ、たちまち観光名所となりました。左は、1958年(昭33)頃発行された、見学者向けパンフレットです。

 見学コースは9時から18時までオープン(夏季は8時から22時)し、入場料は40円でした。本館の中には航空教室として、航空関係の展示や映画室がありました。
 また、見学者通路と駐機場は、手を伸ばせば機体に届きそうなくらい近かったため、
「ガソリンタンクがございますのでおたばこは固くお断り致します。」との注意書きがあります。


 このターミナルビルは増改築を繰り返し、1993年(平5)まで40年近く使用されました。現在の新B滑走路西端付近にあたります。

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