羽田空港半世紀の歴史
躍進篇
空港は、搭乗者と見送る人の最後の接点です。 左は、1962年(昭37)5月30日、エールフランスの乗客に宛てられた電報。22時30分発の271便は、アンカレッジ経由パリ行きでした。 増築されたターミナルは、出国手続ブースの手前には「特別送迎待合室」が設けられ、ガラス張りの吹き抜けの大広間で、搭乗者や送迎人が、くつろぐことができました。上はその入場券です。(昭和45年) 他にも、出国手続きの終了した搭乗者が、一部を網にしたガラス一枚を隔てて見送り人と最後の会話ができる、「別れの窓」という施設もありました。 いずれも、海外渡航のステータスが高かったり、「一生に一度」的な希少性のあった時代を物語る、今となっては昔話です。 |
発行:東京モノレール(株) |
羽田空港が大変貌を遂げた背景には、1964年(昭39)の東京オリンピック開催という契機がありました。このイベントは、空港の施設の整備そのものだけではなく、空港アクセスを改善することにもつながりました。 左は、1964年(昭39)9月、都心と空港を結ぶモノレールの開業時のパンフレットです。中空を滑るように走る珍しさも手伝って、航空機利用者のみならず空港見学者の人気の的となります。 しかし、片道250円・往復450円という運賃は、当時としては相当高いものでした。また、開業直後は途中駅が一つも無く、乗客が航空旅客と観光客に限られていたため、同社の経営は苦しいものでした。 左の写真に見える首都高速道路も羽田まで開通し、それまでの一般道の渋滞からの脱却を目指しました。 |
開業から数年間、モノレールは空港とタイアップして、観光客誘致に努めていました。 上は、1965年(昭40)の納涼クーポンです。その名の通り、夕方17時から有効で、当時ターミナルビルの屋外スペースで夏季に開催されていた、ビアガーデン客を当てこんだものと思われます。 下は、1966年(昭41)の夏休みご家族特別割引クーポンです。 両方とも、モノレール往復切符と空港の観覧券という同じ構成ながら、発売額には大きな違いがあります。当時のモノレールは高い運賃が不評だったため、そうしたイメージを必死に払拭しながらの集客努力の跡がうかがえます。 |
年譜その6 1966年(昭41) この年、東京近辺で航空事故相次ぐ。 新東京国際空港が成田に建設決定。 1967年(昭42) 日航が世界一周線を運航開始。 1970年(昭45) ジャンボ機が太平洋線に就航。 |
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