羽田空港半世紀の歴史
拡張篇
年譜その5 1959年(昭34) 太平洋線にジェット機就航。 1962年(昭37) 羽田の漁業組合が漁業権放棄。 東京湾の汚染で海苔養殖が不可能に。 1963年(昭38) ターミナルビル大増築完成。 1964年(昭39) 沖合にC滑走路完成。 東京モノレール開通。 日本人の海外渡航自由化。 |
発行:日本空港ビルデング(株) |
民間に解放された羽田空港は、太平洋線と欧州線の接点として、又、復興を遂げて急成長の途上にあった日本の表玄関として、国際航空路における重要性は飛躍的に高まっていきました。折りしも航空界はプロペラ機から大型ジェット機の時代に入り、滑走路の延長や駐機場の拡張が必要となりました。 上は、1961年(昭36)頃の見学者向けパンフレットに掲載されている、拡張予定図です。白抜きの部分が従来の敷地で、その沖合いをさらに埋め立てて、新しい滑走路(点線)を造成することがわかります。 |
「東京における入国手続きについて」 1962年(昭37)/日本航空 より |
拡張対象は、空港の敷地だけではありません。航空機の大型化と便数の拡大に伴い増加する旅客をさばくため、ターミナルビルも増築が必至でした。 左は、増築前のターミナルビルの略図。チケットカウンターで搭乗手続きをした乗客は、ターミナル2階のロビーへ。そして再び1階に下り、出国手続きを済ませて駐機場へ向かいます。 ※到着客はこの逆を辿ります。 |
こちらは増築後のターミナルの内部。最も特徴的なのは、出発客と到着客が分離され、各々に対する処理スペースが拡大したことです。 2階の出発ロビーに上がった出発客は1階に下りず、その奥の増築部分にある出国手続ブースを通って、出国待合室に入ります。搭乗口へはフィンガーと呼ばれる廊下が延びています。 一方、到着客は1階で入国手続きを済ませた後、2階に上がることなく荷物を受け取って空港外へ。荷物の受け取りは、ターンテーブル式となり、それまでの手渡しから自動化されました。 |
「東京国際空港御案内」 1964年(昭39)/日本交通公社 より |
発行:日本空港ビルデング(株) |
左は、大増築後のターミナルビルの写真が表紙を飾る、団体客向けの見学案内パンフレット。管制塔は増築部分の屋上に移設され、現在の新ターミナル完成まで長らく親しまれた、羽田空港の景観が出来上がりました。 駐機場の機体は、エールフランスのボーイング707。画面左下・突き出したフィンガーの両隣に緩やかな弧を描く構造物が見えますが、エンジンの強烈な排気から周囲を守る「ブラスト・フェンス」です。ジェット時代に入ったことを象徴しています。 |
右は、上のパンフレットより、昭和38年頃の団体食堂の光景。修学旅行らしい詰襟の男子学生がぎっしりと詰め込まれ、昼食のカレーを食べるのは、隔世の感です。 団体向けメニューには、「はとバス」の昼食で出る幕の内や、「機内食」まであります。このように、当時の羽田空港は航空交通の要のみならず、東京を象徴する必見のスポットとしてレジャーの対象となっていました。 空港ビルを経営する会社も、積極的に観光客を誘致していました。 |
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