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オキナワの長い戦後

本土を結ぶ「国際航路」
 以下に紹介する資料は、アメリカ統治時代の沖縄航路の案内です。「琉球海運」は、軍管轄の「琉球海運部」から切り替えられる形で、1951年(昭26)年に民間会社として設立されました。
 上段の案内書の頃は、毎月3の倍数日の午前11時に、那覇と鹿児島双方の港から、定員200人クラスの貨客船「沖縄丸」「那覇丸」が出港していました。
 船賃は円と「B円」単位で表示されています。B円とは当時沖縄で流通していた米軍発行の通貨です。これは1958年(昭33)に廃止され、以降は本土復帰までドルが通用するようになります。

 首里城のような著名な建物は軒並み戦災で消滅しました。この案内には、「ひめゆりの塔」が当時の沖縄の象徴として写真が挿入されています。ちなみに、「守礼の門」が復元されるのは1958年(昭33)のことです。
Ryukyu Kaiun Kaisha 1956/?

1956(昭31)年
203mm×105mm 四つ折


日本籍・沖縄籍・沖縄在住の奄美籍かにより出入国の扱いが異なっていました。
(3番目の区分は、1953年(昭28)の奄美諸島の日本復帰を受けての措置?)
復帰運動の騒乱の舞台となった沖縄航路
 1960年代後半、時代のエネルギーの噴出は、反戦・平和運動や日米安保体制・保守政治への反対にも向けられ、その一つが、当時アメリカ統治下にあった沖縄問題でした。
 米軍関係の事故や事件が繰り返され、抵抗の甲斐なく収用された土地がベトナム戦争に使われるという状況の下、沖縄の問題は、住民の主権の保障にとどまらず、米国からの無条件即時返還という面がクローズアップされるようになります。
 そんな中1967年(昭42)7月、同社は那覇−鹿児島線に加え、那覇−東京線を開設しました。しかし、当時の沖縄航路は、本土と沖縄の間の「国境」を象徴したものだけに、下の予定表が発行された頃には、次のような騒ぎが起こったといいます。(同社社史による)

 1967年4月 那覇港で「ひめゆり丸」に、学生集団が渡航証明と乗船券なしで乗船する騒ぎ。
 1968年3月 那覇港に到着した「おとひめ丸」で、学生集団が入域手続きを拒否して集会を開く。
 1968年8月 東京入港後の「ひめゆり丸」で、学生集団が入国手続きを拒否。身分証明書を焼き捨て、強行上陸。


 沖縄の本土復帰問題は、翌年1969年(昭44)の佐藤首相とニクソン大統領の会談で、1972年(昭47)の返還が合意され、政治レベルでは一応の決着をみることとなりました。
Ryukyu Kaiun Kaisha 1968/01

1968(昭43)年1月
117mm×67mm 五つ折


度々、騒乱の舞台となった「ひめゆり丸」「おとひめ丸」の運航予定。
運賃表は円とドルで記載されていました。(当時は1ドル=360円)
関連項目

悲劇の島のなつかしき日々−沖縄航路(大阪商船、1937−40年)
沖縄の空は日の丸の翼で(南西航空、1971年)
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