「時刻表歴史館」ホーム > 戦前黄金時代 > 草津電気鉄道、軽井沢町観光課(1928-1939)
懐かしの高原列車−草軽電鉄

別荘地を縫う長距離軽便鉄道
 大正初期、各地で地方鉄道の新設が相次ぎました。それ迄の私設鉄道が、厳しい基準を要求されていたのに対し、「軽便鉄道法」により、規制が緩やかになったのがその一因でした。
 下に紹介するのは、そうした「軽便鉄道」の代表的存在であった草津電気鉄道の沿線案内。1915年(大4)に開業の後、路線を延ばし、軽井沢から草津温泉に至る高原地帯を結んでいました。その存在は当時の文人によって文学作品の中にもしばしば語られています。

 L字型をした独特の形の機関車が、その名物でした。
Kusatsu Railways 1928?

1928(昭3)年?
122mm×120mm 二つ折


軽井沢から草津温泉まで、実に4時間をかけて走っていたことがわかります。
国際的避暑地・軽井沢
 草津電気鉄道の走る軽井沢は明治以降、日本に滞在する外国人宣教師が別荘を建て始め、避暑地として内外に名を知られることとなります。下に紹介するのは、軽井沢町観光課が発行した「軽井沢交通案内」のパンフレットで、日本語と英語が併記されているところに国際色が現れています
 しかし、これが発行されたのは第二次大戦開戦の年、国内が戦時体制に傾斜していく時代でした。パンフレット内部には『旅の恥はかき捨て式の悪戯は、日本国民として断然排撃すべきである。戦地に日本精神、銃後に公徳ありて日本の文化は輝く』といったいかめしい標語も見られます。多くの文人に愛され、また豊かな国際色を誇った軽井沢の戦前黄金時代は黄昏を迎えようとしていました。

 草津電気鉄道は、1939年(昭14)に草軽電気鉄道と名前を変えます。
 戦後になって軽便鉄道は交通網の発展の中で次々と消滅していきましたが、この路線も1962年(昭37)に廃止されました。しかし、今でもバス会社としてその名前を留めているほか、当時の機関車が軽井沢駅前に保存され、往時を偲ぶことができます。


1939(昭14)年7月
167mm×113mm 六つ折


軽井沢交通案内に掲載された軽井沢略図。
黒い点の連なった線が草軽電気鉄道線です。
有名な三笠ホテルや、リゾート地らしくゴルフリンクもみられます。


下段が草軽電気鉄道の時刻表。新軽井沢から北軽井沢まで、夏季臨時列車「北軽急行」がノンストップで走っていました。
また欄外には、『新軽井沢〜旧軽井沢間に20分おきに「白樺」電車運転』とあり、その名前が高原の爽快さを誘います。
他に、上野から沓掛(中軽井沢)までの信越線時刻も掲載され、夏季臨時列車「高原」「涼風」の名が見られます。
関連項目

愛称つき臨時列車がはこぶ夏の夢(鉄道省 東京鉄道局、1934年)
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