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CHINA NATIONAL AVIATION CORP. 1936/04

1936(昭11)年4月
230mm×102mm 10頁


右は時刻表の内部より。
スチンソン小型機による、上海−北平(北京)普通便。
このほか、DC-2を使用した急行便もありました。
戦火に追われた大陸の翼

四千年の歴史と
 「上海から漢口まで、普通の交通機関なら4日。航空機は最短で3時間30分。」−これは、上左の時刻表に掲載されている、目的地別の所要時間比較表の記述です。広大な平原と急峻な山岳地帯を有する中国大陸は、航空旅行の利点が発揮できる土地ですが、その中心的存在が、1929年(昭4)に設立された中国航空公司でした。
 同社の路線は、モダンな国際都市・上海から、歴史ある北平(北京)や成都・重慶へ、そして交易の中心地・沿海部の広州へと広がっており、胴体に筆文字で大きく「郵」(郵便輸送の意か?)と書かれた最新機種が、悠久の大地を翔ぶ様は、独特のエキゾシチズムを誘う世界を醸し出していました。

戦争で霧散した夢
 中国航空公司は、1933年(昭8)にパンアメリカン航空が、世界進出計画の極東での足がかりとして同社の株式を大量に握ると、その地位がグッと飛躍します。やがてパンナムの太平洋横断飛行艇航路は中国大陸(香港)へと至りました。しかし、日中戦争による日本の占領地域拡大は同社を南の奥地へ追い込み、さらに重慶といった内陸の拠点が爆撃にさらされるような時代に、世界航空路網の一環を担うという気宇壮大な夢は実現しませんでした。
 そして第二次世界大戦の開戦。同社は米軍に混じって、インドやビルマ(ミャンマー)から中国大陸奥地へ「ハンプ越え」と呼ばれる山岳地帯横断飛行を行い、日本軍に抵抗する中国軍や連合軍への物資補給を支援しました。

 戦前の中国大陸に存在した航空会社としては、他に「欧亜航空公司」や「西南航空公司」を挙げることができます。日本の占領が拡大すると前記の会社に代わり、日本系の「中華航空」(現在の中華航空とは別)が幅をきかせることとなりました。
CHINA NATIONAL AVIATION CORP. 1948/07

1948(昭23)年7月
238mm×98mm 二つ折
束の間の復活そして消滅
 第二次大戦が終ると、中国航空公司は再び民間航空の活動を開始することとなります。1947年(昭22)6月には、サンフランシスコに至る太平洋横断線を開設するなど、路線網も広がりました。左の時刻表はその頃の香港発着便の時刻を掲載したものですが、香港発台北経由上海行きといった、今日では考えられない路線もみられ、当時の世界地図の版図が伺えて興味深いものです。

 しかし、この時期も必ずしも平和な時代ではありませんでした。国民党と共産党による国土を二分する内戦は、同社を再び南方に追いつめることとなります。1949年(昭24)の中華人民共和国の成立により、古きよき戦前中国の象徴ともいえる中国航空公司は、歴史の荒波の中にその姿を消しました。


1948年の時刻表より。使用機は当時の世界的な標準である、DC-3およびDC-4でした。
右下に見える、(香港−)昆明−ラングーン−カルカッタ線は、まさに戦時中の「ハンプ越え」ルートです。



戦後の中国航空公司で使用された、DC-4型機。登録記号はXT-T07と読みとれる。(クリックで画像を拡大)
1948年頃に中国南部の飛行場で撮影と思われるが不詳。【筆者所蔵】
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