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南京・上海−激戦の街を「視察」する バスは"聖戦"の跡をゆく 1937年(昭12)7月に勃発した日中戦争で激戦地となった中国大陸中南部・南京や上海では、戦局が落ち着きを見せると、「華中都市自動車」によって観光バスが運行されました。(同社は、南京や上海のほか、蘇州や杭州といった華中7都市のバス事業運営を目的に、1938年(昭13)に設立された会社) ここに紹介する案内書には時局柄、「視察」や「巡拝」という表現が使われています。しかし、残虐行為も含め、多くの血が流れた土地を、観光バスが"勝者"の視点で紹介することで、正当化の一端を担ったというところにも、戦争時代の狂気が表れているのかもしれません。 歴史の中心地となった南京 下左は、南京で運行された視察バスの案内。 南京は1912年(明45)に清朝が幕を閉じた後、中華民国の首都が置かれました。日中戦争の中で、本来の首都は重慶に移るのですが、その後、汪兆銘によって、日本軍の支援を受けた国民政府がここに樹立されるという変遷を辿っています。 神社前から出発していた上海観光バス 下右は、租界に象徴される、列強諸国のアジア大陸における中心地であった上海の観光バス。 表紙には、激戦地となった郊外の大場鎮に日本が建てた記念塔が、中国軍のトーチカの跡や高層ビルを圧するように描かれ、日本支配を象徴するようです。 日曜日と祭日の朝8時半、上海神社(案内書では「在留邦人唯一の氏神」として紹介。当時、日本の支配の及ぶところにはあまねく神社が建立された)前から出発していました。午前の部と午後の部に分かれ、所要時間は計7時間。午前は主に北方の戦跡巡り、午後は都市中心部の観光でした。 ただし、上海の方は表紙に「都合ニヨリ午後ノ部ノ運行イタシテ居リマセン」とスタンプが押され、治安上の問題かガソリンの枯渇か、いずれにしても時局の緊迫によって観光にも限界が生じたことを窺わせています。 |
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1941(昭16)年頃? 190mm×206mm 二つ折 |
1941(昭16)年頃? 179mm×80mm 五つ折 |
左と上は、南京の観光バスパンフレットより。 左は、巡覧箇所の説明と、発着時刻・料金等の案内。 光華門での激戦の模様が細かく記されています。 上は視察コース。(部分) |
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関連項目 満洲の観光バス案内(大連都市交通 奉天交通 ほか、1939年) |
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