港の風景(釜山港 その2)


戦後の釜山
 1945年(昭20)に、35年の長きにわたった日本の植民地支配から解放された後、釜山は韓国第2の都市、またアジアの重要な港湾都市のひとつとなりました。
 朝鮮戦争中は、共産軍の侵攻に押されながら、西側諸国が最後の砦として死守したという歴史もあります。また、この戦争によって多くの避難民が流入し、都市の膨張とそれに伴う様々な課題を抱えながら、発展を続けました。
 右の写真は、1957年(昭32)夏に、竜頭山公園から、釜山港を撮影したもの。
 館長が入手した韓国関係のアルバムの中にあった一葉で、撮影者は不明です。

 左の方から海の中に伸びているのが、もと関釜連絡船の桟橋。
 一方、街並みに目を移すと、まだ高層ビルは見当たらず、発展前夜の状態がうかがえます。
 1970年(昭45)頃の、観光案内図です。外国観光客用と謳われているように、英語と日本語で解説が書かれ、イラストマップになっています。
 かつて神社があった竜頭山一帯(画像の中央やや左下)は、公園になりました。よく見ると何か立っていますが、これは豊臣秀吉の朝鮮侵攻で戦った李舜臣将軍の銅像です。竜頭山公園には、この後「釜山タワー」が建てられ、晴れた日には対馬までが見える絶景ポイントとして親しまれています。
 関釜航路は、鉄道省の連絡船廃止後も、民間によって細々と続いていましたが、この地図の頃には「釜関フェリー」(日本では「関釜フェリー」)として、再び日本と韓国を結ぶパイプとして機能し始めました。「P-2」と書かれた桟橋にその乗り場が見えます。
 最後に、今は失われた風景を一葉。前ページで触れた、「釜山大橋」(影島大橋)の開橋です。光線の具合や人々の服装から、おそらく冬の午後でしょうか。

 橋の上に鈴なりになって船の通過を待つ人々。中には当時使われていた、小型のバスもみられ、活気溢れるシーンです。路面電車の線路と架線が見えるので、1960年代中頃と思われる絵葉書です。

 東京の勝鬨橋と同様、交通の激化で開橋はやがて中止され、現在では開かずの橋となりました。取り壊しも検討中と聞きます。
 
付録:対馬海峡を翔んだ国産旅客機・YS-11

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