港の風景(釜山港 その1)


釜山は不思議な街である。海峡をひとつ隔てて、全く文字や言葉が違う。山肌の色が違う。
しかし、近さゆえに、その本来の文化と生活が奪われた時期があった。
支配する側・される側の哀歓の中で発展したこの街は、時代が変わった今、さらに進化を続ける・・・
大陸の玄関口として
   釜山は、1905年(明38)以降、下関と釜山を結ぶ「関釜連絡船」の発着港として、賑わいました。
 当初は私鉄によって開設されましたが、翌年に鉄道の国有化とともに、日本の鉄道省が運航するようになりました。
 これは、大正初年頃(右に見える消印は「大正4年10月1日」-1915年)の釜山港桟橋の絵葉書です。
 右端には関釜連絡船、左には列車が見えています。その中央の建物が「釜山桟橋」停車場で、ここから京城(現・ソウル)や満洲方面への列車が発着しており、連絡船を降りた旅客は反対側に停まっている列車にすぐ乗り込むことができました。
 この船車連絡は、第2次大戦の終結とともに、関釜連絡船が廃止されるまで続きました。
 右は、関釜連絡船「金剛丸」が1936年(昭11)に登場した時、鉄道省が発行した紹介冊子です。

 外国航路の客船を思わせる美しいフォルムが金剛丸型の特徴でした。また、全船内にエアコンを装備する等、設備も当時としては画期的な船でした。
 その優れた設備を紹介するため、色刷りで船内の縦断面図が挿入されていました。

 金剛丸は、戦後間もなく座礁事故を起こし、解体されました。一方、姉妹船の「興安丸」は、引揚者輸送で一躍有名になり、長く現役を続けました。
 
 大陸と日本を結ぶ大動脈として活躍した関釜航路でしたが、労働者の強制連行等、負の記憶も忘れられません。
 また、戦争中には真っ先に敵の攻撃の対象となり、多くの船員・乗客が命を落としています。(バイパスとして出来たのが、博多・釜山間航路でした。)

 この姉妹船のありし日の船影や、乗船記念スタンプは、ポストカードのコーナーをご覧下さい。
 
日本時代の釜山
 日本の植民地時代の釜山は要塞地帯であったためか、大都市の割には他の都市に比べ、市街の案内資料は少ないように思います。次の2点はそういう背景から、貴重なものかもしれません。
 
 上は、1940年(昭15)の市街案内冊子。名所旧跡の他、店の広告などが掲載されています。
 表紙の上半分には、「竜頭山神社」、下半分には可動橋として有名であった「釜山大橋」を描かれていました。
 上右は、ほぼ同時期に発行されたと思われる『釜山観光案内図』です。

 地図の右の方に2本突き出ているのが桟橋で、左の方の桟橋には、下関からの関釜連絡船が発着していました。船車連絡のため、桟橋まで鉄道線路が伸びているのが分かります。
 前述の竜頭山は、その桟橋のやや左上に描かれており、その下に位置するのが釜山大橋です。釜山大橋のたもとのあたりが市街中心部で、「三中井」という百貨店がありました。
 赤い線は路面電車を表します。ただし、他の諸都市の例に漏れず、路面電車は1968年(昭43)に撤去され、現在は地下鉄が開業しています。

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