氷雪の港町 大泊は樺太(現在のサハリン)の最南部に位置する港町です。日本領時代の1923年(大12)からは、北海道・稚内と大泊の間に、鉄道省が「稚泊連絡船」の運航を開始し、樺太の玄関口として栄えていました。 左は1935年(昭10)に、大泊観光協会が発行した市街の案内です。名所旧蹟・土産品・商店や飲食店の案内が掲載されています。 |
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冊子の表紙には、大泊港桟橋へつながる連絡橋が描かれています。この桟橋は、陸から直角に突き出た形をしており、桟橋には鉄道の「大泊港駅」がありました。表紙に描かれた二条の煙は、右は連絡船で左は駅に発着する汽車のものではないでしょうか? 右上の地図はこの冊子に掲載されている市街略図です。右から延びてきて、鉤型に曲がっている黒白の線が鉄道を表し、曲がった先端が桟橋にあたります。(ちなみに、方角は右が北) 地図の中央部に「公園」と表示されているのは、「神楽岡公園」でした。亜庭湾を一望する高台で、説明によると、高山植物が生え、冬はスキーもできたようです。 日本の敗戦以降は旧ソ連領、しかも軍港として管理されてきたため、長らく秘密のベールに包まれていましたが、近年は再び開放され、稚内との間の航路も復活しています。 |
稚泊連絡船の記憶 上に紹介するのは、1934年(昭9)夏に東京鉄道局が募集した、「北海道・樺太視察」の行程表からの一頁です。視察と名打っていますが、いわゆる今日の団体旅行です。8月8日から23日の実に15泊16日の長期間にわたり、北海道全域と樺太南部の名所をひととおり巡っていました。 この行程表の所有者は、各地で克明にスタンプを押しています。この頁は、夜行列車で稚内港に着いてから連絡船に乗船し、樺太・大泊に渡る部分ですが、中央には連絡船「宗谷丸」の記念スタンプが見えます。オットセイ型の枠の中に、針葉樹林と日ソ国境の標石が描かれていました。 (ちなみに、下段のスタンプは右から、音威子府駅・佐久駅・稚内港駅のものです。) |
帰路、大泊から稚内へは連絡船「亜庭丸」に乗船しています。 スタンプに「砕氷船」と謳われているとおり、稚泊航路は冬は氷に閉ざされる厳しい自然環境です。大泊港でも、氷の上で人や荷物を積み下ろしする、「氷上荷役」が行われることがありました。 |