戦前・戦中音楽界資料室

 つい最近になってクラシック音楽の分野では、戦前から戦中にかけての日本人(または日本にゆかりの深い外国人)作曲家の作品に、もっと目を向けようという動きがある。裏を返せば、最近になるまでこの時代の音楽の多くはなかなか顧みられる機会がなく、むしろそれを避けられてきた感さえある。

 その大きな理由は、「当時の体制の要請に応える」ことを目的として書かれた、「耳になじみやすい」作品が少なくなかったということと無縁ではないだろう。戦後になって、それまでの皇国史観や軍国主義的思想を賛美した作品群は、ほとんどが民主主義社会の中で居場所を失い、また調性的で平易なメロディは古くさく、前衛主義とは相容れないものとして、隅に追いやられた。

 後にこのような扱いを受けることになる一大イベントがあった。1940年(昭15)に国を挙げて行われた、「紀元二千六百年奉祝」に呼応した音楽界の動きである。その中で特に知られているものは、海外から募った祝典曲が演奏された同年12月の演奏会であるが、他にも国内の作曲家による作品発表も行われた。

 もうひとつ注目すべきことがある。それは、日本人にとっての西洋音楽の受容の歴史ということについてである。いわゆるクラシック音楽は、主に明治時代以降に我が国に輸入され今日に根付いた。その背後には、演奏や作曲を通じてその文化を伝えた人々や興行界の発展があったわけであるが、見るべき成果が少ないと思われてか、あまり照射される機会がないまま今日に至ってきた。

 しかし、戦後が半世紀以上を経過し、当事者の証言も少なくなってきている現在、前記の点にアレルギー反応を起こすのではなく、技法・ひと・社会的意義等も含め、我々の辿ってきたこうした芸術文化の歴史をもう一度素直に見直してみたら・・・という、最初に述べたような動きが現れているようだ。

 私はオーケストラの打楽器奏者ということもあり、当時のバカでかい編成の話や、マイナーながら派手で面白い曲といった興味本位な関心を持っていたが、過去の資料に接する機会が多くなり、もう少し真面目な意味で、「あの頃、何が行われていたのかを明らかにする」ということも重要だと思うようになった。ここではそうした思で私の所蔵する資料を紹介し、皆様にご覧いただきたい。
 
1. 日露交歓交響管弦楽演奏会
 
 1925年(大14)4月26日、この日は日本人が日本国内で初めて本格的オーケストラの響きを耳にした日といわれる。音楽学校や興行の楽隊とは一線を画す大編成オーケストラによる「日露交歓交響管弦楽演奏会」が東京・歌舞伎座で始まった。これはその名のとおり、日本とロシア(帝政ロシアはすでにソ連邦となっていたため、中国東北部・ハルビンを中心とする白系ロシア人中心)の演奏者が合同で大曲を演奏するというものである。当時、日本楽壇の中心人物であった山田耕作は、常設のプロ・オーケストラを目指して「日本交響楽協会」を立ち上げており、そうした日本における本格的オーケストラ時代の幕開けを告げるイベントととして、この演奏会は企画されたのであった。
 上は、その初日のプログラムで、曲目は上右の画像のとおり、ベートーヴェンの「運命」に始まり、メインが「シェエラザード」というもの。『毎日曲目全曲更新』とあるように、他の日には「悲愴」や「胡桃割人形」といったロシア物スタンダードを中心に、ドイツ仕込みの近衛秀麿によるワーグナーやR.シュトラウスも含まれていた。(4日間で全て曲目が違うというのは今ではさすがにプロでもやらないだろう…)
 この演奏会の重要性は、単に企画としての派手さだけではなく、聴衆の中に、後に日本の楽壇の重鎮となる人々が含まれていたということである。(服部良一、朝比奈隆) 本物の音を日本人に聞かせたいという山田の意図は、見事に達成されたのであった。
2. 紀元2600年奉祝楽曲発表演奏会
   1940年(昭15)12月に開催された、「紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会」の資料。当日のプログラム(左)と、入場券(下)。
 海外から募った4曲が発表されたこの演奏会は、東京では7日・8日・14日・15日の都合4回開催され、この資料の前所有者は14日に入場したようだ。入場料は税込2円50銭であったことがわかる。
 券の右端が切れているのは、入場時にもぎ取られたものであろう。
 プログラムは、縦26センチ・横18センチで、12ページ。演奏曲目と作曲者の紹介、楽団員一覧表、「紀元二千六百年奉祝楽曲と紀元二千六百年奉祝交響楽団」と題された、本演奏会の実行経過概要が書かれていた。
 今日と違い、企業広告の類はまったく見られず、唯一「紀元二千六百年奉祝楽曲総譜配布」という、当日演奏された4曲の総譜(スコア)集の販売告知が掲載されていた。金拾圓とのことだが、当時の鉄道運賃で東京から下関の先まで行ける金額であり、単純比較で今日の一万何千円相当だろう。当時の社会情勢では、誰でも買えるという訳ではなかったのではないだろうか。
 
 右は、プログラムより当日の演奏曲目。曲については、各種の資料によって既に知られている事柄と思うので詳述は避けるが、言うまでもなく、ブリテン(英)による『鎮魂交響曲』は含まれず、プログラムにも全く触れられていない。

 「紀元二千六百年奉祝交響楽団」は、楽団員一覧表によると以下の団体の合同オーケストラであった。

 宮内省楽部
 東京音楽学校管弦楽部
 新交響楽団
 中央交響楽団
 星櫻吹奏楽団
 東京放送管弦楽団
 日本放送交響楽団

 前述の実行経過概要によると、8月下旬から編成着手、10月10日に165名の奉祝管弦楽団が成立した。10月12日から12月6日の総練習(ゲネプロ)まで、なんと延べ三十数回の練習を行ったと書かれている。
 なお、「サイトウ・キネン・オーケストラ」に名を残す、故・齋藤秀雄氏が下稽古を担当したとの記述もある。
 
 日本と三国同盟を結ぶことになる、ドイツとイタリアから祝典曲が寄せられたのは自然なことであった。左は、ドイツのリヒャルト・シュトラウス作曲の『祝典音楽』のスコア(総譜)である。表紙には菊の紋章があしらわれ、赤い背景は日の丸のイメージを思わせる。

 R・シュトラウスは、交響詩『ツァラトゥストラかく語りき』などで有名であるが、『祝典音楽』の頃は既に70歳代半ばであった。プログラムには「1ヶ年の間、他の作曲から遠ざかって、専心力を注いだ大交響詩」とあるが、後に戦争の傷跡に心を痛めたといわれる老境の彼が、この時、どこまでプロパガンダの面を意識して作品を書いたのかは分からない。
 想像するに、かつて大規模な管弦楽曲の筆をとったことを思い出しながら、心の中にある「自分」を五線紙に表現することを楽しんだのではなかろうか。

 この曲は、金管・打楽器セクションの巨大な編成で知られている。金管は、ホルン8・トランペット4・トロンボーン4・チューバ2を基本として、オルガンの効果を出すために、ホルン4・トランペット3・トロンボーン4・チューバ1が使われる。(一部は基本編成と掛け持ち)
 打楽器は、普通の楽器だけでも4〜5人の奏者を要するが、圧巻は14個の音程を持った"Gong"が加わる点である。この場合、お寺のリンが使用され、東京中の寺から大小のリンが借り集められたという話を聞いたことがある。

 これは、10年程前にウィーンの楽譜店で偶然見つけて購入したものだが、今でも出版されているのだろうか? なぜ半世紀前の特殊な曲が置いてあったのかは謎である。
 
3.皇紀二千六百年奉祝芸能祭制定交響作品発表会
 1940年(昭15)の紀元二千六百年を記念する音楽行事のもうひとつは、「芸能祭制定交響作品発表会」であった。これは、日本文化中央連盟が主催したもので、当時の代表的な作曲家による記念楽曲を発表するものである。

 この催しは、4月3日の第1回と11月26日の第2回が行われ、第2回に発表された、おそらく最も直接的に建国神話と関係ある曲が、交声曲(カンタータ)『海道東征』(信時潔作曲)である。右はそのスコアで、裏表紙に「ビクターレコード」と書かれていることから、当時発売されたレコードの付録と思われる。(スコアの説明では、初演は11月20日に東京音楽学校奏楽堂で行われ、11月26日は「公開」初演だったようである。)

 編成は、ソプラノ(第一、第二)・アルト・テナー・バリトン・バスの独唱と、混声四部合唱+2管編成オケである。演奏会では、独唱・合唱・管弦楽とも、東京音楽学校(木下保指揮)で演奏されたと記されている。

 歌詞は北原白秋の作で、神武天皇が高千穂を出発し、海路大和へ入るまでを描いている。スコアの解説によると、神武天皇賛歌三部作の第一作と位置付けられるものとされており、続編が考えられていたのかもしれない。作曲の信時は、1937年(昭12)に合唱曲『海ゆかば』(軍歌として有名)を作曲した、当時の中心的な声楽曲作曲家の一人であった。
 
 左は、スコアの扉に紹介されている、日比谷公会堂での『海道東征』演奏時の模様である。画像ではよく分からないが、合唱団は左右両側に女声・中央に男声を配置し、中央前部は児童合唱である。独唱者は指揮者の前に並んでいた。

 合唱団後方の反響板に巨大な日の丸が掲げられ、舞台右方の壁面には「大政翼賛」と書かれた大きな垂れ幕が見える。時代の空気が感じられる一枚である。(この年の10月には大政翼賛会が発足)

 観客が一様にプログラムに見入っているのは、歌詞を追っているのか?
 
4.ハルビン交響楽団
 
 戦前の満洲(現在の中国東北部)にプロのオーケストラが存在していたことは、あまり知られていなかった事実である。これは、そうした楽団の中心的存在であった「ハルピン交響管弦楽団」が、1939年(昭14)に来日公演を行ったときのプログラムである。
 満洲はロシアや日本などが権益を争った土地であるが、ハルビンはロシアによる鉄道建設に伴って発展した。ロシアといえば、チャイコフスキー等の作曲家や、ピアノやヴァイオリンの名手を多数輩出するなど独特の音楽文化を持っており、鉄道に附属する楽団のロシア人演奏家を母胎として1936年(昭11)に成立したのが、「哈爾濱交響管弦楽団」−ハルビン交響楽団というわけである。

 同楽団は1939年(昭14)3月一杯をかけて、東京・名古屋・大阪から九州・朝鮮半島までを巡り、演奏会を開催した。このプログラムは大阪公演のもので、3月19日から21日までの三夜連続で行われている。上右は第一夜の内容であるが、この後第二夜はオール・ベートーベン・プログラム、第三夜は「シェエラザード」をメインとしたロシアものであった。なお、プログラムは三つ折で、演奏曲目とメンバー表が載っており、曲目解説が別刷りで挟み込まれている。

 「日満防共親善芸術使節」という物々しい肩書きや、第一夜冒頭の3曲が時代の特異性を伝えているが、メンバーは前述の通り、全てロシア人音楽家によって構成されていた。また、ハルビン交響楽団の設立と育成には、日本人音楽家等も少なからず関わっていたようである。日本のクラシック音楽文化の歴史は、国籍を問わずそうした人々の存在に支えられているのである。
 
参考文献
音楽芸術別冊 『日本の作曲20世紀』 (音楽之友社, 1999年)
岩野裕一 『王道楽土の交響楽 満洲−知られざる音楽史』 (音楽之友社, 1999年)
『フィルハーモニー 99/2000 SPECIAL ISSUE』 (NHK交響楽団, 2000年)

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