ポストカード(回想の青函連絡船)
 本州と北海道を結んで長年活躍した、国鉄(JR)青函連絡船が消えて、はや10年以上が経ちました。
 輸送ルートとして最重要の役割を果たし、また多くの人に独特の感慨を与えたその航跡を、時代を感じさせる絵葉書で辿ってみましょう。
 大正時代の函館桟橋の様子です。横付けされている船は、初代の青函連絡船である、「比羅夫丸」か「田村丸」のどちらかと思われます。当時は船も小さく、桟橋の設備も岸壁があるだけといった感じだった様子がわかります。
 連絡船を特徴づける「貨車航送」もまだ始まっていなかったため、貨物は台車に載せて運び出されていったようです。
 こちらは昭和戦前頃の青森桟橋の遠望です。この写真が撮影された現場は、巨大な三角形をした建物で特徴的な、現在の観光物産館「アスパム」の近辺ではないでしょうか? 今ではベイブリッジが架かっている海上には、多くの漁船や帆船がひしめいていました。
 正面に煙をたなびかせているのは、2代目の連絡船にあたる、「翔鳳丸」型4隻の内のいずれかです。このタイプの連絡船から貨車の航送がはじまったため、中央やや左には貨車を船内に積み込む可動橋の、門型支柱が見えます。
 戦争中に空襲で壊滅的な被害を被った連絡船ですが、戦後間もなく新造船が登場し、北の大動脈として再びよみがえりました。そうした新造船のトップバッターが、あの有名な「洞爺丸」でした。
 これは「洞爺丸」を斜め後方から撮影した、昭和20年代の絵葉書ですが、貨車を積み込む大きな開口部が船尾に見えます。当時ここに蓋はなく、ここから流れ込んだ台風によるうねりの海水が、1954年(昭29)9月に同船と乗員乗客多数の生命を奪う元となりました。
 「洞爺丸」ほか多数の連絡船が台風によって失われたため、国鉄はその代船を急遽建造することとなりました。旅客向けとしては、ここに紹介する「十和田丸」が、1957年(昭32)10月にデビューすることとなりました。「十和田丸」は、機関がそれまでの石炭焚きからディーゼルエンジンになるなど、連絡船の近代化の第一号とも言えます。
 この絵葉書は1960年(昭35)に実際に使用されたものですが、その文面を紹介しましょう。当時の時刻表に照らすと、差出人は青森発9時50分・函館着14時20分の第17便に乗船したようです。航路が賑わっていた当時の様子が伝わってきます。

『三時間位おくれるかなと思ってたけど、四十五分おくれで青森について汽船が待っていた。観光客で一杯だ。あいにく霧雨でどこも見えない。青森を出る時少々風が強かったから、津軽海峡はゆれるかと思ったが、これも海峡に出たら割合落ちついて平穏だ。子供が澤山乗っていて、アメリカの兵隊のところに行ってサインをもらってる。(後略) 六号室の寝台で 三五・六・二二 后二』
 昭和30年代の連絡船の出港風景です。往く者と残る者がその思いを色とりどりのテープに託した、古き時代の見送り風景が写しだされています。しかし残念なことに、テープの取り損ねが原因の転落事故があり、こうした見送りは後に禁止されてしまいました。
 もうひとつ注目したい点は、船体側面の窓の形状です。上の「洞爺丸」では四角い大型窓が並んでいますが、例の遭難事故後、残った船の窓は水密性の高い丸窓に改造されました。船尾の開口部にも、防水扉が取り付けられました。
 1964年(昭39)の東京オリンピックの年、青函航路に画期的な大型船が就航しました。上の写真の「津軽丸」を第一船とするこのタイプは、1988年(昭63)3月の青函トンネル開通まで第一線で活躍し、航路の最後を看取りました。
 この絵葉書セットは、「津軽丸」型の就航間もない、昭和40年代初め頃に発行されたものと思われます。ちなみにサイズは16センチ×28センチで、絵葉書としては破格のジャンボサイズです。しかしそれだけに、最後の"海峡の女王"たちの姿が、迫力をもって今に伝わってくる逸品です。
(目次に戻る) (サイトのトップへ)
(C) Copyright tt-museum 2001-2004. All rights reserved.